Brentari (2019) 第5章:新興手話における音韻化プロセス
ゼミ
July 14, 2025
根本的な問いかけ この章では、「ジェスチャーはどのようにして音韻システムを持つ手話へと発展するのか」という問題を扱います。外見上は非常によく似ているアメリカ人のジェスチャーとアメリカ手話(ASL)話者の表現を比較し、手話が音韻構造を持つとはどういうことかを明らかにします。
音韻化の3段階 (Coppola & Brentari, 2014) 手話が音韻システムを獲得する過程は以下の3段階で進行します:
音韻システムの発達は、以下の4つの制約タイプの相互作用によって説明されます(Prince & Smolensky, 1993; McCarthy, 2001):
制約タイプ | 機能と具体例 | 手話での現れ方 |
---|---|---|
対応・整列制約 | 形式と構造レベル間の対応関係を規定。韻律と統語構造が適切に整列することを要求 | ABSLで韻律的境界と統語的境界が一致する発達 |
分散制約 | 音素空間を効果的に利用し、区別可能な形式を最大化することを要求 | 手指形状の複雑性がシステム全体に分散される現象 |
忠実性制約 | 入力形式と出力形式の対応関係を保持することを要求 | アイコニシティが完全に失われず保持される傾向 |
有標性制約 | より単純で自然な形式を優先することを要求 | 調音しやすい手指形状が好まれる傾向(SFC等) |
これらの制約は互いに競合し、その優先順位の変化が音韻システムの発達を駆動します。
ABSLはイスラエル南部のベドウィン村で使用される村落手話です。この村では遺伝的聴覚障害により、ろう者の割合が一般人口より著しく高く、ろう者と聴者が共に手話を使用します。
発達の特徴: - 第1世代:発話単位が短く、多くが単一のサインで構成。顔の表情は主に感情表現に使用 - 第2世代(年長者):発話は長くなるが、節と節の関係は単純な並列に留まる - 第2世代(若年者):発話がさらに長くなり、眉上げなどを文法的なイントネーションとして使用
重要な発見:世代を重ねるごとに非手指要素(顔の表情等)の機能が感情的なものから文法的なものへと移行し、統語構造の発達と密接に連携しています。
NSLは1970年代後半にニカラグアでろう学校が設立された際に、ろう児たちによって自然発生的に創造された手話です。
発達の特徴: - 多数のろう者話者を持ち、毎年新しいメンバー(生徒)が加わる - 形式の分析と再分析の機会が豊富 - 手指形状の体系化と名詞・動詞の構造的区別が急速に発達
音韻論の出現過程を理解するために、ニカラグアの研究データを詳細に分析します。この研究では、ジェスチャー、ホームサイン、そして新興手話言語NSLの話者を比較することで、音韻システムがどのように段階的に発達するかを明らかにしています。
取り上げる主要トピック:
研究の重要性:これらの研究は、人間の言語能力の根本的な性質と、言語がどのようにして無から生まれるのかという言語学の根本問題に光を当てています。
この研究では、ニカラグアの4つの異なるグループを対象に、手指形状の複雑性を定量的に分析しました。
手指形状の複雑性は、Brentariの手指素性階層モデルに基づいて以下の2つの次元で評価されました:
各次元で低・中・高の3段階に分類し、10の映像タスクを通じて名詞と動詞の表現を引き出しました。
研究の結果、4つのグループ間で手指形状の複雑性に明確な違いが見られました:
グループ | 複雑性の度合い | 具体的な数値(相対値) | 理論的解釈 |
---|---|---|---|
ホームサイナー | 最高 | 100% (基準値) | 分散原理が無制約で作用 |
NSL第2コーホート | 中程度 | 約85% | コミュニティ圧力による効率化 |
NSL第1コーホート | 中程度 | 約80% | 初期の体系化プロセス |
ジェスチャー使用者 | 最低 | 約60% | 対立認識の欠如 |
ホームサイナーは Carrigan & Coppola (2017) が指摘するように、「自身のシステムの生産者ではあるが、受信者ではない」という特殊な立場にあります。彼らのコミュニケーションパートナーは通常聴者の家族であり、ホームサイナーの構造的規則性を理解しません。そのため、コミュニケーション効率化の圧力がかからず、分散原理(DISPERSION)が制約なく作用して複雑性が最大化されます。
NSL話者はろう者コミュニティ内でコミュニケーションを行うため、効率性が重要になります。素性経済(feature economy)の原則が働き、必要以上に複雑な形式は淘汰されていきます。
ジェスチャー使用者は Coppola & Brentari (2014) の音韻化3段階の最初の段階「対立の増加」にさえ到達していません。手が提供しうる対立の可能性を認識しておらず、体系を作るための「素材」が不足している状態です。
ホームサイナーの段階では、Flemming (2002) の分散理論が制約なく作用します。分散制約は「音韻要素の目録は多くの区別を持とうとし、区別の少ないシステムは単純な形式のみを含むが、区別の多いシステムは追加的により複雑な形式を含む」ことを規定します。
ホームサイナーの特徴: - 豊富な対立形式を生成(分散) - システムを整理・組織化する原則が機能しない - 他者との相互作用による制約がない - 語彙目録を拡大できるが効率的に再編成できない
NSL話者はろう者コミュニティという使用者集団の中でコミュニケーションを行うため、以下の要因が作用します:
効率化の駆動力: - コミュニケーション効率性の優先 - 相互理解可能性の要求 - 素性経済(feature economy)による体系整理 - 使用頻度による形式の淘汰
最終段階では、対称性(SYMMETRY)と規則性の確立により、真の音韻システムが形成されます:
体系化の特徴: - 形式間の体系的な関係性の確立 - 予測可能な音韻規則の出現 - ミニマルペアの体系的な利用 - 生産的な音韻プロセスの発達
分散→効率化→体系化の順序は言語普遍的である可能性
手話の手指形状は、アイコニシティの種類によって大きく2つのカテゴリーに分けられます。これらの区別は、ジェスチャーでも手話でも普遍的に見られるため、音韻化プロセスを追跡する理想的な研究対象となります。
アイコニシティのタイプ:「手-物体として」のアイコニシティ 機能:物体の形状、大きさ、材質などの視覚的・触覚的特性を表現 特徴: - 行為者(agent)が存在しない状況で使用 - 物体が空間内で位置を占めたり移動したりする様子を表現 - 選択指(どの指を使うか)が物体の特性と直接対応
具体例: - 細い棒状の物→人差し指(1-handshape) - 平らな面→平手(B-handshape) - 丸い球→O-handshape
アイコニシティのタイプ:「手-手として」のアイコニシティ 機能:行為者が物体をどのように掴み、操作し、扱うかを表現 特徴: - 行為者の存在を前提とした使用 - 物体との相互作用における手の形状と動作を表現 - 関節の屈曲パターンが操作方法と直接対応
具体例: - ペンを持つ→指先でつまむ形状 - コップを持つ→円筒を握る形状 - ボールを投げる→球を握る形状
この2つの区別が音韻化の鍵となる
アメリカ、ニカラグア、イタリア、中国での国際比較研究により、ジェスチャー使用者と手話話者の間に根本的な違いが発見されました。
手指形状タイプ | 関節の複雑性 | 選択指の複雑性 | 解釈 |
---|---|---|---|
物体ハンドシェイプ | 低 | 低 | 単純な表現に留まる |
操作ハンドシェイプ | 高 | 高 | 複雑性が集中 |
パターンの意味:ジェスチャー使用者は、手の動作的側面(操作)により注意を向け、両方の複雑性次元を同じ目的に使用します。独立した構成要素性(componentiality)が欠如しています。
手指形状タイプ | 関節の複雑性 | 選択指の複雑性 | 解釈 |
---|---|---|---|
物体ハンドシェイプ | 低 | 高 | 選択指で物体を区別 |
操作ハンドシェイプ | 高 | 低 | 関節で操作を区別 |
パターンの意味:手話話者は複雑性を体系的に分業し、各次元を異なる意味機能に特化させています。これは「手指形状の独立構成要素性」の証拠です。
Eccarius (2008) と Brentari et al. (2017) の研究によれば、この分業パターンは以下を示しています:
これは言語特有の構造であり、ジェスチャーには見られない
成人ホームサイナー
子供ホームサイナー(フリオの縦断研究)
ホームサインシステムは生涯を通じて変化可能
3段階のプロセス:
最適性理論的説明:
研究対象
実験デザイン
方略 | 説明 | 例 |
---|---|---|
語順 | 動詞最終語順 | 非音韻論的 |
関節の使用 | 動詞=近位関節、名詞=遠位関節 | 音韻論的 |
繰り返し | 名詞で繰り返し、動詞で単一動作 | 音韻論的 |
基底手 | 動詞で基底手使用 | 音韻論的 |
焦点は「繰り返し」の機能変化
ホームサイナー + NSL第1コーホート
NSL第2・第3コーホート
分布の変化が音韻化の証拠
アイコニシティから抽象化へ
体系内での般化
音韻的特性の出現≠分布の確立
要因 | 内容 | 例 |
---|---|---|
自然さ・アイコニシティ | 指示対象の特性 | 動物→擬人化、道具→操作手形 |
音声学的圧力 | 調音・知覚の容易さ | 選択指制約(SFC) |
言語生態系 | 社会的環境 | ろう者コミュニティの規模 |
文化的連想 | 文化特有の経験 | 箸 vs ナイフ・フォーク |
頻度 | 使用頻度 | 高頻度素性の早期音韻化 |
家族方言 (familylects) の現象
EGG(卵)の例
選択指制約(SFC)への適合
側面 | NSL | ABSL |
---|---|---|
手指複雑性 | 中~高複雑性が22-26% | わずか4% |
言語生態系 | 多数のろう者、毎年新規参入 | 少数のろう者、出生のみ |
発達速度 | 早い(分析・再分析の機会豊富) | 遅い(機会限定) |
Horton (2018) の研究
コミュニティ手話(NSL型)
村落手話(ABSL型)
言語生態系が発達スピードを左右
音韻化の段階的プロセス
アイコニシティと音韻論の関係
形態音韻論の優先性
言語学習者(特に子供)の貢献:
発達の方向性:
言語学習者が音韻システム創出の鍵
これまでの詳細な分析を通じて、手話における音韻論の出現が以下の統合的なプロセスであることが明らかになりました:
第1段階:分散による素材の蓄積 - ホームサイナーで観察される無制約な複雑性の増大 - 対立可能性の探索と形式範囲の拡張 - 体系化の前提条件としての「素材」の準備
第2段階:対応関係の確立 - 形式と意味の体系的なマッピングの開始 - 物体ハンドシェイプ↔︎選択指の複雑性、操作ハンドシェイプ↔︎関節の複雑性 - アイコニック基盤を保持した機能分化
第3段階:対称性と効率性の最適化 - 素性経済による不要な複雑性の除去 - システム全体の対称性の確立 - 生産的な音韻プロセスの確立
「繰り返し」の機能変化が示すパターン: - 初期:アイコニック機能(反復=反復的使用を表現) - 中期:文脈依存的な文法機能(反復的動詞→名詞標示) - 後期:抽象的な形態音韻論機能(一律な名詞標示)
この変化は、音韻的特性の分布パターンの変化が音韻化の核心であることを示しています。形式の出現ではなく、その使用法の般化が重要です。
発達速度を左右する外的要因: - コミュニティサイズ:大きなろう者集団ほど急速な発達 - 新規参入の頻度:継続的な学習者の存在が体系化を促進 - 分析・再分析の機会:多様な使用者間の相互作用が重要
NSL(22-26%高複雑性)vs ABSL(4%高複雑性)の対比がこれを実証
今回紹介した研究は、言語学の根本的な問いに対して以下の新しい洞察を提供します:
手話研究が人間言語の本質解明に不可欠な領域であることが確認された
技術的質問歓迎テーマ:
発展的議論歓迎テーマ:
個人的関心・感想:
活発な議論を通じて、手話音韻論への理解を深めましょう